会員の声

第26回日本産業衛生学会全国協議会を終えて

企画運営委員長
久保田 昌詞(大阪労災病院 治療就労両立支援センター)
運営実行委員長
中西 一郎(東レ株式会社 滋賀事業場健康管理センター)

2016年9月8日(木)から10日(土)の3日間、京都テルサ(京都市南区)で「第26回日本産業衛生学会全国協議会」を開催致しました。
過去25年間、産業医部会・産業看護部会・産業歯科保健部会主催の「産業医・産業看護全国協議会」と、産業技術部会主催の「産業技術部会全国大会」が別々に開催されていましたが、今回初めて4部会合同で開催されたものです。
昨年5月の第88回総会終了直後に「全国協議会」企画運営委員会が発足し、メインテーマを「変革期を迎えての産業保健の協働」と決定しました。近畿地方会の次代を担う産業医部会・看護部会の若手の先生方を中心にプログラムを練って頂き、歯科保健部会や技術部会の全面的なご協力も得て、12のシンポジウム、7つの教育講演、計13の事業所・会場内実地研修を企画しました。
「全国協議会」は「実践」を重んじる学会とする方針であることから、「ストレスチェック」・「ダイエット」・「非正規雇用」・「データヘルス」の4シンポジウムは演者を公募してGood Practice を投稿して頂くことを本学会の目玉企画としました。

二日目午前中のメインシンポジウムでは4部会長から産業保健の現状を俯瞰して「変革期における協働」の在り方についてそれぞれの立場からご発言を頂きました。

演題数57題のポスターセッションを含めて多くのセッションで熱意あふれるご講演・ご発表、問題の本質を深く掘り下げるような討論が展開されました。二日目夜の懇親会では千年の歴史を誇る「祇園囃子」を保存会の皆様によって演奏して頂き、遅くまで会員同士の意見交換が続きました。三日間で当初の期待を超える、1,114人のご参加を得て、4部会合同の初の「全国協議会」は無事閉会いたしました。

最後に、企画運営に携わって頂いた先生方はもとより、発表や討論に加わって頂いた会員の先生方の絶大なるご支援・ご協力に厚く御礼を申し上げます。

園遊会に招かれて

阿部 源三郎

今度、大阪労働局のご推薦により平成24年度秋の園遊会に労働関係者の一員として私が選ばれ、平成24年10月25日(木)赤坂御苑に行って参りました。

天皇皇后両陛下がご到着までの一時間、苑内の自由散策が許可されていましたので、午後1時到着以後の1時間、心ゆくまで苑内を散策させて頂きました。

午後2時10分、両陛下以下の皇族の方々がご到着後、私達招待者が予定のお道筋にならび、天皇皇后両陛下並びに皇族殿下をお迎え致しました。

今年2月18日心臓バイパス手術をなされた陛下は大変お元気になられ、軽やかな足取りで歩いてこられ、突然私の前で立ち止まられました。
そして、「ご高齢とお見うけられますが、おいくつですか」と質問されました。
私、直立不動で「93歳でございます」とお答え致しましたら、皇后陛下が「お元気ですね」とおっしゃって頂き、恐懼感激致しました。
次いで、皇太子、秋篠宮殿下がお通りになられ、続いて紀子妃殿下が私の前で立ち止まられました。
私の名札が「医師(産業医)」とありましたので、「産業医とはどの様なお仕事ですか」と問われました。
私は「産業医は職場で働く従業員の健康管理が主体で、治療より予防重視の仕事でございますが、産業医一筋の今日までのお陰で生き長らえ、本日の園遊会に参加することが出来ました」とご返答申し上げましたら、「お元気ですね。これからも頑張って下さい」と申されました。

全く思いがけぬ両陛下と紀子妃殿下との対話は私にとり終生の思い出であり、感激致した次第です。
私、今年6月回盲部膿瘍で急遽入院手術を施行、幸い汎腹膜炎一歩手前の状態で命拾いすることが出来ました。

やはり、平素から気力の充実と前向きの姿勢、自己管理の重要性を今回確認致しました。そして「治療より予防」「セルフケアの大切さ」が人生を生き抜くための必須条件であることを痛感した次第です。

(大阪労働基準連合会,基準月刊,12月号,16P,2012)

近畿地方会設立の淵源

堀口 俊一

平成2年(1990年)、日本産業衛生学会創立60周年を迎えるにあたり、その記念事業として、当地方会は「日本産業衛生学会近畿地方会の歴史」を発刊(1991年3月)した。その中で、近畿地方会の戦前の歴史(水野洋)と戦後の歴史(原一郎)が概説されている。

これらによると、現在の日本産業衛生学会近畿地方会は、当時の「日本産業衛生協会」の「京阪地方会」として創設され、発会式は昭和11年(1936年)1月20日午後1時から20数名の出席者のもとに大阪鉄道病院において挙行された。従って、この日をもって当地方会の嚆矢とすべきであろう。なお、「京阪地方会」の名称は、翌昭和12年(1937年)に「京阪神地方会」と改称された。しかし、その後の地方会の活動はほとんど記録されていない。

第2次大戦後、昭和24年(1949年)から約3年間は「近畿労働衛生研究会」という独自の研究会活動が行われていたが、戦後の地方会の実質的な再発足は昭利28年(1953年)11月に始まった。  この時、日本産業衛生協会近畿地方会・近畿労働衛生研究会の両会長である梶原三郎名義で案内が出され、研究会の解散、地方会会則案、役員選出、事業計画、その他を議案として総会を開催し、その後に集談会が持たれた。このような経緯を経て、当地方会の活動は現在に至っている。

これまでの産業保健の歩みは、問題の事後的解決の歴史であったと言える。産業保健の未来については、各事象を過去からの延長線上でとらえて成りゆきを想像するのではなく、各事象の問題点を取り上げ、それらがかくあるべしと希求する像を描き、予測される事象に対して未然に対策を立ててゆくべきであると考える。

当地方会も、このような観点に立ち、具体的問題に取り組んでゆくことを期待する。